この国で生きていくということ
初めて病院に行った話。
何が原因かわからない。突然それは私を襲ってきた。
ベトナムといえば、空気が汚い。外に出るにはマスクが必須でサングラスもあった方がいいほど。ただ、フエはベトナム国内において、空気汚染はそれほどではない。ホーチミン、ハノイはひどいのだ。
そんなことわかっていたけど、甘く見ていた。
ホーチミンに遊びに行った際、無意識に目を擦って掻いてしまったのが原因?でものもらいになったのだ。
日本であれば、よくある話。眼科に行って目薬やら飲み薬をもらって2、3日もすればよくなる。
だが、ここは違った。
患部は少し腫れている程度。これなら、自然治癒かな。絶対に触らない。そして清潔にする。
翌日、腫れが増す。膿ができる。
職場に行くと、私の目の状況を見て、病院に行ってこい。と同僚。
ただ問題は多い。ここはフエ。病院といっても、ローカルな感じ。本当に信頼できるのか?そして言語。私はベトナム語も英語もまともに話せない。例え、自分の症状を伝えられても、医師が行ったことを理解できる自信はないし、ましては薬や服薬情報となると、聞き間違えれば大問題だ。
そういう、外国人にしかわからない不安や心配はなかなかベトナム人には理解しにくい。
そんなことを頭で考えていた。
どりあえず、保健師に相談。写真を送り、症状を見てもらう。
やはり、病院受診を勧められた。
もし言語面で不安なら、電話で通訳すると。
うん。。それなら行くか。と渋々行く準備をする。
一応状況を配属先のボスに相談。すると、同僚を一人同行させると。
ここでようやく、同僚が動き出す。
やはり上からの指示は絶対なのだ。
これがないと動き出せない社会。個人単独では動けない。
それから唯一の国際病院を受診。
待ち時間が長いことは覚悟していた。受付を済ませ、眼科へ。患者0人。医師2人。
早速、診察。視力検査?目の状態を見た後、膿を取ろうとする。あまりの痛さに叫ぶ。泣く。
結局膿は取れず、塗り薬、飲み薬を処方され、帰宅。
これで症状がよくなるはずだった。
でも、この薬の副作用が私を苦しめるとは。
薬は適切だったが、量が多すぎたのか、私の体には強かった。
身体中に倦怠感、頭が割れるほどの頭痛、眠気、背中の痛み。
それに伴い足の付け根や背中に湿疹。
耐え兼ねる辛さ。そして不安。
どうなってしまうのか。私。
そんな時、お見舞いに来てくれる同僚。その優しさに涙。
翌日、再診。
ボスに相談すると、またしても同僚を同行させると。すごいな。この指示力。
ここでわかる、私に対する待遇の良さ。
ボスは言った。
「あなたがどんな状態で苦しんでいるのか。何が必要なのか。それは言葉にしないと決して私たちはわからない。」
日本とは違う。ベトナム人は察するということはしない。だから、全て私次第なのだ。日本人の思いがちな迷惑をかけないように。とか、相手にどう思われるか。とか。
そういう感覚は捨てなければいけない。
わかっているはずだけど、まだまだできない現実。
目の状態は回復傾向。
薬を変えてもらったが、またしても強い薬。
保健師に相談し、量の調整をして様子をみることに。
これも経験か。
やはり健康第一。
健康体であってこそだ。
自分と向き合うこと
ベトナム国内旅行。なんとなく日常からかけ離れたかった。この感覚は、日本にいた時、一人旅に出たいと思う感覚に似ている。
そう離れてみてわかる、日常の大切さを再確認するために。
ホーチミンに行く。日本を味わいたくなったからだ。
日系のホテルに泊まり、日本食を食べ、日本人に会う。
これが私の求めていたこと。でも、あれ?何か違う。満たされるべきものが満たされないのだ。
それよりも、ベトナム人との関わりや作られたものではなく、元からあるものを求めている。
心は完全にベトナム化していたことに気づくのだ。
仕事のことは考えない。
でも、何がしたいんだろう。
頭の中の整理がつかず、常に何かに追われているような、見られているような、そんなソワソワした気がしてならない。
私の幸せって。安らぎって?
考えるとそれが満たされるのは、自分が自分の居場所で存在していること。
フエの人がフエにこもる理由。
また考えさせられる。
独自の世界観が強い。ただ、素直でまっすぐ。そして何よりもたくましい。揺るがない芯のようなもの。
日本に帰国。
本物の日本。
私の居場所。はどこなのだろう。
わかっている。
人は人。
自分じゃなければダメな理由がある。
改めて思う。私は、認められること。愛されること。同調されることで自分の幸福度が決まるのだ。
誰かといたい
誰かといたい
この依存性はここに来てから増してきた感情だ。
誰かと話したいから、バインミーを買いに行く。
グラブタクシーに乗る。カフェに行く。
話す相手。話したいと思う人は限ってフエ人だ。
ありきたりの言葉、マニュアル、形式ばった会話、そんなものあってない世界。
日本にいた時、全てのことが予想できていた。店に行く、物を買う、お会計。
流れが予想できた。だからこの日常が時々嫌になる。人は変化を嫌うけど、時々ルーティンの方が嫌になる。生きるということを、全身で感じていたい。どんな時も。
ここにきてからルーティンなんてない。
それが当たり前になると、ルーティンとかきまりとか、簡単に壊せるようになる。
というか、時間を守るとか、〜しなければならない。ということができなくなる。
適当。とは違う。でも自分中心に物事を考えるようになるし、必要とされたら他者のために力になりたいと思う。
特にフエへの愛は増すばかりだ。
ここまで関わった以上、自己満でもいいから恩返しをしたい。
彼らの喜んだ顔が見たい。
この片田舎で得た物は想像以上のものだった。
いわば賭けだった。まあ、まだ終わっていないのだけど。
でも9ヶ月目の事実はある。
TVインタビューを受けて
先日、ベトナムのTV局が私の学校に来て、ベトナムで働く外国人をインタビューしたいとのこと。
簡単なインタビューかと思いきや、自転車通勤するところからのまさかの撮影。
こんな形でTVデビューとは。
まあ、日本で放送されないから、知り合いにああだ、こうだと言われる心配はない。
いつも通り振る舞えばよかったはずなのだけど、、。。
取材陣が来る2時間前から、校長の様子がおかしい。
朝から新調したというドレスからアオザイに着替え、化粧、髪型のセットを忙しくしている。
もちろん、取材されるのは私で、きっと校長もいくつかの質問を受けるだろう。
にしても、すごい準備に力を入れている。
とうの私はというと、ありのままを見せればいいと思っている。
日常をみせればいいと。だから、特にいつもと変わらず。。
まあ、私には、これ着ろ、ああしろという指示はないから、きっと自分さえよく映ればよいというのが、ベトナム人の考え方。
私は私。人にはあまり強要しない。
取材が始まった。
だが、これは日本でもよくあることなのかもしれないが、、
全ての進行は取材陣が行う。
いつもの日常とはかけ離れた映像が撮れた。笑
まるでドラマのような、こどもたちの反応のよい授業。
障害があっても幸せですよ。アピール。
外国人の先生と笑顔で塗り絵。
毎日の日常である、こどもの泣き声、教員の大声が響く日常は全くなかった。
あーものすごい違和感。
そんなことを考えてるもんだから、主役である私は全然調子が乗らなかった。
一通り、こども達との関わる映像が撮れると、個別のインタビューへ。
校長のインタビューから。緊張した様子で、私につい話してくれたようだ。
ベトナム語だから何を言っているかわからないが。
その後は私の取材。
外国人の取材。という主旨で来ているのに、まったくお構いなしでベトナム語で質問される。もちろんわかるはずがない。
何度聞き返しても、ゆっくり話したり、単語で話す様子もない。
配慮のないところ。これはベトナム。
すかさず、同僚に通訳をお願いするが、質問内容がわかったところで、それに対する回答話すには、時間を要する。
いつもの会話の場合、相手の相鎚、言葉の反復、間違っていても相手は聞き流して理解しようとしてくれる、いわば、言葉のキャッチボールがされている状況である。
しかし、インタビューというのは、こちらがいくら話しても反応がないもんだから、私の拙いベトナム語が合っているのかどうか分からないし、いいたいこともまとまらない。しかも、発音が難しすぎて、取材陣は浮かない表情。
あーもう逃げたい。
何度も中断。
中断しても上手く言い直す自信はないし、何より自分の言葉で言いたかった。時折、こう言え、ああ言えと自分の知らないベトナム語を強要してくる取材陣や同僚。わけのわからない言葉をコピーして言ったって自分がわかってないんだもの、何も伝えられない。
だんだん悲しくなる。
自分が言いたいことはこんなつくられた言葉じゃないのだ。
むなしくなる。
誰も助けてくれない。急にやる気と自信がなくなり、放棄したくなった。
そんな様子を隣で見ていた校長(カウンターパート)が私に言った一言。
「あなたは話せるんだよ。うまく話そうとする必要はない。ただ、ゆっくり少しずつ。
ほら、夏の研修会で言ってたじゃない。あなたがJICAに参加することを決意した理由。途上国の旅行で、障害児に会ったんでしょ。あの話してあげなさいよ。
いつも、あなたのクラスの子はあなたに夢中じゃない。
それにほら、この前私に言ってたじゃない。あなたの感じる困難性。」
それは、私が普段何となく話してる話。決して伝わると思っていないけど、心で訴えていた日常のあれこれ。
その積み重ねが、カウンターパートにはちゃんと伝わっていた。私のこと、ものすごく見てくれて、知ってくれてた。
感動して。また泣きそうになる。もうインタビューどころじゃない。
このインタビューは、また日を改めて実施することに。私は、取材陣に伝えた。
私は外国人。インタビュー内容は前もって伝えてください。
そして質問をするなら、ゆっくりと。わかりやすい言葉で言ってください。私は外国人なのです。
と。そう。ここまでしないとこの国、いやフエの人は分からないのだ。
日本人であれば、言われなくても察するということができる。
でも、それは通用しない。このインタビューで学んだこと。
後日、語学学校の先生から聞いたのだが、
フエの人は外国人慣れしていない。考え方は自分重視であり、自分がこうなら相手もそうに違いない。という考え方。いわば考え方を変えにくい。
わかりやくす例えると、日本の昭和時代の父ちゃん。頑固おやじである。
なかなか、新しい考え、風習、トレンドを受け入れにくい。
言わなきゃわからない。
これは、ここに私が暮らし始めてから、よく感じること。
そして、そもそもの根本的な考え方が日本人とは違うのだ。
日本人は我慢をしがち。その状況を保つために。
しかしベトナム人は我慢をしない。
私は、思っていることをされけだすことは、苦手だった。
でもここに来てから、そうせざるを得ない状況が多すぎる。
いつも行くバインミーや。店の人はいくら仲良しでいつも同じものを選び、いつも辛くしないで。といっているのに、何度も通ったってそれを覚える気はない。
毎回、言わなきゃいけない。
外は大雨。どう考えても自転車で通勤するのは危険。
そんな時でも、なぜ自転車に乗れないのか、いちいち説明しなければいけない。
こういことを思い出していくと、ベトナム人が未来のこと、先の見通しをもつことが苦手なのがよくわかる。
今しか考えていない。
問題回避力が低い。
私は、先のことを考えすぎて、よく病む。
でも今だけのことを考えているときは、非常に楽で、心配性が軽減する。
だから、ここでは今を一番に考えているからこそ、こうやって居心地よく暮らしていけるのだ。
ベトナム人のエネルギー
ベトナムで働きはじめてから、平日と休日の考え方が少しずつ変わりつつある。
日本にいた時。
休日のために働く毎日。そもそも仕事自体に楽しいとか充実感を持たなくなっていた。朝起きると、あー今日も始まるのか。休みたいなあ。なんて
どんよりした気持ちで目覚める。
日曜日のサザエさん症候群はひどく、それは日曜の朝から発症してしまうほど。だから1日がすぐに終わってしまうと思うのが嫌で、外出は避け、家で籠る休日を過ごしていた。私にとっての幸せな休日とは、、、
朝好きな時間に起きること。
好きなものを好きなだけ食べること。
食後の二度寝。
ユーチューブを満足するまで見ること。
部屋の掃除と洗濯をすること。
これができれば、とりあえず満足できるのだ。
だがしかし、これもルーティン。
毎回、同じことをしていても何の変化もなく、むしろ気分は高まらない。
まあ、救いはこんな生活をしているのは私だけではなく、割と同世代の人は同じような休日を過ごしているということ。
だが、ベトナム人の休日は全く違うのである。
そもそも仕事をストレスと感じないのかもしれない。
仕事量や仕事に対するモチベーションが低い分、仕事という物に対する捉え方が大きく違うのかもしれない。
身近な例だと私の職場(学校)は、〜しなければいけない。というのがない。
やりたくなければ、やらなくていいのだ。
それに対して誰も指摘しなければ、文句も言わない。
子供中心ではなく、大人の都合で動く。
絶対なんてないのだ。
この国の違和感。初めはずっと慣れなかった。
だから、仕事中だろうと、家族に会うために家に帰ったり、ご飯を作りに帰ったり、子供の送り迎えで帰ったり。。。
まさに自由。
仕事だから〜する
休日だから〜する
と決めないのが彼ら。休日はしっかり休息する。というよりかは、とことん時間を使って楽しむ。方が適当だと思う。
私は休日はいつもより2時間くらい遅く起きるが、ベトナム人の朝は休日であっても早い。
理由は朝のカフェに行くのである。
朝8時ごろから街中のカフェは家族や友達、カップルで大賑わいだ。
こんな活気めいた光景を見るだけで、なんだかエネルギーが湧いてくる。
もちろん日本のようにカフェで一人で仕事。なんて人はほとんどいない。
むしろ休日には絶対仕事はしないのである。
外では、子供の声、人々の笑い声や話し声が響き渡る。
誰も怒りという感情を露わにしないのがこの国?ここフエの良いところだと思う。
こういった時間を惜しまないところ、楽しいことには全力で楽しむ。楽しいか楽しくないか、ということなんて関係ないのかも。
年齢関係なく、その瞬間を楽しもうとするところ。
その瞬間のために、おしゃれをし、朝から美容室でヘアセットをする女性たち。
マナーが悪い若者なんて見たことない。
警察を見ることも、救急車が走っているのも見ない。
もちろん電車の音、機械音、、日本であたりまえのように聴いていた音がない世界。店に入っても誰も。いらっしゃいませ。なんて言わない。
家のドアは前回。いつも誰かが訪れてお喋りしてる。
テレビよりもおしゃべり。携帯よりもおしゃべり。
いつからだろうか、一人でいることが必ずしも快適とは思えなくなった。
一人映画。一人散歩。一人カフェ。
なんだかつまらない。ここにいるからそう思う。普段どれだけ自分の周りに人がいるか。そんなことに気づかされる。
あー私、良い経験してるな。
休日をもっとアクティブにすごしてみるのもいいな。
ベトナム人女性の行動あるある
ベトナム人女性というのは非常に観察力に優れている。
とにかく初めて着る服、今まで見たことない物を身につけていた時の気づきの正確さには驚かされるものがある。
そして、それが相手に似合っているとか、自分好みではない。とか関係なくまずは一言「きれい!」の一言を忘れないのだ。
特に私の印象では、年配女性ほど必ず言ってくる。
もちろん日本人にとっては慣れず、まずは「そんなことないよ。これ安物だよ。」と自分を認めず、何かと理由をつけて応じる傾向にある。その後に「あなたもきれいだね」と言い返すのがよくあるパターンだ。。
しかし、ベトナムでは自分から「きれい?」と聞いちゃう。
そしてきれいと言われた後は、微笑む。
これがベトナム式のやりとりである。
言われたことを素直に認め、余計なことは言わない。一見、なんて自信があるのだろう。きっとこれまで沢山言われすぎて慣れているに違いない。
なーんて思われがちだが、それってとっても素敵なことだと思う。
自己肯定感の低い日本人にはなかなかできない技である。
そしてもうひとつ。
例えばすごく仲良しのベトナム人がいるとする。いつも一緒にいる中だが、大人数が集う食事会で席が離れてしまった。もちろん目の届く範囲にはいるが、いつものように料理を取り分けてくれる人が自分ではない。相手が自分ではない人と楽しそうに話している。
そんな恋人同士ではよくあるヤキモチみたいな感情。まあ、恋人でなくても友人でもあり得る話である。
そんな光景を目の当たりにしたあとは、どこか気まずい雰囲気になったり、なんとなく寂しさとか怒りとか、、あまりいい気持ちはしないものだ。
しかし、ベトナム人女性はとてもダイナミック。
ようやく会がお開きとなり、最後の記念写真となると、すぐさま仲良しのベトナム人が私の隣に密着。そして手をつないできたのだ。彼女の年齢は40代。職の役職も管理職クラスだ。
他の誰が見てようと関係ない、何も言わずにずっと私の手をつなぎ、写真撮影では隣をキープ。
これは彼女に限ったことではない。
きっとベトナム人の心理では、いつも一緒にいる人が、自分以外の人と楽しそうにしている(本来ならば自分がそこにいるはずなのに)ことは、相手を取られた。と思うみたいで。その後の距離感を詰めてくる傾向にあるのだ。
きっとこういうわけで、よく日本人男性とベトナム人女性が付き合うと、ベトナム人女性は嫉妬深いとか、執着心が強いとか言われていしまうのだ。
でも、それはちょっとちがうのではないかな。
私このような経験をし思うことは、とても嬉しい。こんなにストレートに感情を表せることをむしろ羨ましいとさえ思った。
私は、大好きな気持ちを相手に伝えることは苦手だから、いつも行動ではなく、手紙やメール、プレゼントという形で代用している。
でも彼女はそんなアイテムを使わずに、自分で勝負してきたのだ。
そんな行動の一つで、
これまで私の抱いた「私、嫌われてる?」とか「私はみんなにとって邪魔な存在?」だなんて思いは一気に消えた。
なんか素敵だな。
心に秘めた感情なんて所詮、自分しかわからない。
もっと表出できたらどれだけ幸福度は高まるだろうか。。
フエ人の時間の流れ
ベトナム中部に位置するフエ。
まだまだフエについては知らないことが多い。
私がフエについて知っていることといえば、
王宮がとにかく多い。確かベトナム最後の王朝があった場所だとか。
歴史は大の苦手で、ここに派遣される前、勉強をしたものの時間が経つとすぐに忘れる有様。別に興味がないわけではない。。
ただ今は知るタイミングではないのだ。と言い訳にしか聞こえないが。
まあ、知りたいと思った時に私はものすごく知識を吸収しようとするタイプなので今はその時がくるまでしばし待ち。である。
そしてこのフエに来て感じることは、時間の流れである。
初めて来た時、まるで人々がスローモーションで動いているような錯覚に陥った。
なぜなら、バイクの速度がゆっくりなのだ。車もゆっくりなのだ。
そして、物売り人、道を歩く人、若者でさえも動きがゆっくりなのだ。
ここまでのんびりしていると、急かされるという感覚を忘れてしまう。
私はせっかちであるし、人混みが大の苦手である。
そしてを人に急かされること極力嫌う。
日本人はというと、便利な生活が当たり前。時短だとか効率性だとか、そういったものを優先し、そこで自己満足感を得ようとする傾向にある。
だが、ここではみーーーんな面倒臭いことを当たり前のようにしている。
例えば、スーパーのレジは5つあるのに、使っているのは1つだけ。従業員は多すぎるくらいいる。
1つのレジには当たり前だが長蛇の列。
定員が気を利かせて、他のレジへ。。なんてことはない。並んでる客も特に苦だとおもっていないようだ。
ただ並び、もちろん日本のようにじっと並んでなんかいない、途中で割り込みは当たり前。お会計中にやっぱりこれは買わないだの、新しいのに変えろだの。なぜ並んでいる間にしないの?なんて思ってしまう。
しまいには、カード払いでカードが使えず、大騒ぎだ。
そんなこんなで物一つ買うのにものすごい時間がかかる。
私としたらものすごく、時間を無駄にした気持ちになるし、イライラして気分も悪い。
でもそれは、時間を無駄にした原因が分かるから。
同じように並んでいたベトナム人はというと、ひたすら誰かと電話をしていたり、誰かとおしゃべりしている。
他者のことには関心を示していない。
だから、イライラなんてしないし、終始穏やかでいる。
あー平和だな。と思うと同時に、こんなことでイライラしてる自分がなんてちっぽけなのだとバカバカしくさえ思う。
ここは日本ではない。。
私はベトナムに染まると決めてから、こんなことでイライラしなくなったし、時間に対する感覚も随分緩くなった。
10時集合だといわれても、10時10分ごろ家に出るし、それを悪いとも思わない。相手も何とも思っていない。
ベトナム人は絶対には確実だと思う。
例えば大切な会議やイベントでは時間は守る。
ただし、それ以外はかなり適当である。
決して不真面目な訳ではない、むしろその徹底ぶりは関心するほどである。
力の入れ方、抜き方が非常にうまいと思う。
受け身でいることに慣れる
日本にいた時。
私は受け身でいることが嫌いだった。というよりか受け身でいることは、積極性に欠けるとか。やる気がないと捉えられているようで、それ若いうちであれば仕方がないといえるから許されるもの。そんな状態を受け身であるという認識だった。
だから、自分より年上の人がいる飲み会、会議、何かと自分が動かなければいけないという義務感に背中を押されているようで、いつも何を話そうか、何か必要なものはないか、なーんてとにかく気が利く私を演じていたのである。
それは、そもそも中学生、高校生の部活動で身につけたものであり、上下関係を重要視していた私の青春時代では欠かせないものだった。
しかし、ここに来てからは私はいつまでもお客様状態である。
食事の準備は年上のベトナム人がしてくれる。それも役職や経歴が上の人。
お茶碗のご飯が無くなれば、すぐに追加。
飲み物も注いでくれる。
食後のデザートも誰よりも多い。
そもそも独り占めというものが存在しないので、何をするにもシェアである。
食後の片付けもしなくてよいと言われる。
これは7ヵ月経った今でも変わらない。
そしてベトナム人は遠慮がない。
断らなければ、ご飯のお代わりをやめないし、お腹いっぱいだと言っても関係なく食事を与える。その癖、残すことはあまりよしとしない。
私は、いつだって受け身でいる。というか、言われるがままに応じれば、ベトナム人は満足するし、なんだか嬉しそうだ。
逆に自分が何か自分でしようとすると、止めに入る程だ。
食事の手伝いをすることさえ、許してもらえず、座って休んでいないさい。と言われる始末だ。
初めは、ものすごい違和感。。申し訳なさと戸惑いで心がざわついた。。
だが慣れる。。
受け身でいることが当たり前になる。。
いつも誰かが私を見ていて私のために動いてくれる。というかかまってくれる。。
もちろん食事中の同僚の会話には全くついていけず、ただ1人黙々と食べるだけ。
でも不思議と孤独を感じないのは、隣に座ってくれる人がいること。
同じ時間に一緒に食べてくれる人がいること。
必ず一言は声をかけてくれること。
私は空気でも透明人間でもなく、ちゃんとここに存在していること。
これを自覚できるのだ。
受け身でいることの居心地のよさを実感している。
今思うこと
ベトナムのフエで生活を始めて気づけばちょうど今日で7ヶ月。
え?!そうなの??
なんて自分でも自覚がないくらい月日が経つのははやい。
いつかブログを更新しようと思ってはいたけど。
時間は沢山あるはずなのに。なぜ書かないのか。。そもそも、私今、青年海外協力隊として障害児者支援でベトナムに派遣されています。笑
いや個人的に日記は定期的に書いているし、ストックはたくさんある。でもブログとなると、文章にしなければいけないと、勝手に自分負荷をかけてしまう。。
でも、ここはそんなのどうでもよいか。
とりあえず、いつも内に秘めていることをここでは吐き出していこうじゃないか。
これ私にとってまた新しい挑戦である。
やっぱり発信していこう。
思ったことを。。ここでの経験は私しか知らない。
ここに来てから私の内面は大きく変わった。外見もと答える人もいるけど。
とりかくポジティブ思考になった。根拠の無い自信がいつもある。
なんとかなる。。これが当たり前の精神。
何にも怯えてない。
あー自分愛されてるな。甘やかされているな。と自覚できる毎日。
日本では海外旅行が唯一現実逃避できる時間だった。
夏休みには、必ずリュック背負って一人旅をした。英語話せません。お金もありません。危険とか怖いとかそんなことを考えるよりも、とにかく日本にはない刺激が欲しかった。いわば超ドM人間。
そんな憧れの海外での生活が今では日常。
慣れた。
慣れすぎると、見えなくなってしまうものがある。
当初感じていた人の優しさ、温かさ。
日本では、いつも人の顔色ばかり気にして生きていた。
寿命が縮まる思いで、1日をやり過ごしていた。
人間扱いされない。
ひとりぼっちの毎日。
心も体も休息できずいつも未来への不安でいっぱいっぱいだった。
逃げるように仕事を辞め、行く場所がない。。最後の自分への賭けのつもりでここに来た。
決意をしてからはまるで、待っていましたかというように、道がひらけ、物事がトントンと難なく進み、全てが順調だった。毎日幸せを感じ、噛み締めながら過ごした日々。
生きていてよかった。と何度も何度も思い返していた。
人生何が起きるか本当にわからない。
ここフエは私のために用意されたかのようで、環境も人も全てに置いてパーフェクトだった。
私のエネルギーのガソリンは何と言っても人なのだ。
これが欠けると、一気に落ちていく。それはわかっている。
だからここでの2年間、とにかく現地の人のそばにいよう。と決めた。とにかく、断らない。日本人だからという壁は捨てる。私は日本人という誇りとか、プライドとかない。むしろ私をフエに染めてくれ、ぐらいの気持ちで来た。
配属先のカウンターパートの存在は大きくて。
彼女はとにかく優しい。
温和な性格で、美意識が高い。そしてものすごい観察力。きっと日本人にとっては、苦手と感じる人もいると思う。
日本風に言えば、
おせっかい
世話付き
口うるさい
気を遣えない。
でも、私はそれを全てこう置き換えてみた
私のことが好きでたまらないから、お世話をしたい。
私をまるで赤ちゃんのように思っているから一から教えたいのだ
私を自分のものにしたいのだ。
そんな風に思い変えてみると、私の幸福度は一気に高まり、彼女への愛着度も増すのだ。
それからは、私が身につけた置き換え術は、メキメキと力をつけことは面白いほど順調に進んでいった。
いかにも、配属先に貢献してます、という感じの写真も撮れたし、タイミングよく外部の取材を受けたり、名が知れ渡った瞬間でもあった。
休日には同僚と遊びに行ったり、お家に遊びに行ったり、ご飯をご馳走になったりと。かなり同僚との関係性も縮まり、毎日充実、プライベートも最高な過ごし方をしていた。
でもそんな生活も時間が経つにつれ当たり前なったのか、誘いに断るようになったり、ベトナム語がわからないから、なんとなく自分の悪口を言われているのでは?
仕事中も生徒を叱れないことで、色々とトラブったり。
とにかく前みたいに関われなくなってきた。。
なんだろう。
悶々。ここへ来ての小さな壁。
嬉しいことは山ほどあるのに、それを上書きできない。
チャンスをものにできない。
昔から苦手なのだ。。目の前にこれはチャンスだとわかっていることを、自分のものとしてキャッチすることができない。。いつも余計なことをしてパーになるのだ。
なんだかなー。
明日仕事、理由つけて休んじゃえ。。そう考えたら今週3日しか仕事行ってないや。
みんなも気付いているだろうな。私がみんなを遠ざけていることが。
よくない。これは絶対にだめ。近づいてきてくれたチャンスだけは逃しちゃいけない。空振りだっていいじゃないか。。
そんなことしなきゃいいのに、やっぱり試してみたくなる。真実を知りたくなる。
ねえ、私のことどう思っているの?
毎週行ってた日本語の家庭教師。無料で行っている。その代わり夕食をご馳走になっている。
でも、この夕食も豪華な時と質素な時。私はお代わりできて、子ども達はできない。
そんなに厳しい生活をしているならむしろ、夕食はいらない。と言いたかった。
そこで、
今日は家庭教師行くのいつもより遅れそうだけどどうする?
最近調子悪そうだし、疲れているならまた来週教えに行くからね。
こんなメールを送ってみた。
私の予想では行っても大した時間教えられないし、今関係性がイマイチなのは向こうも知っているから、今日は断るだろう。
日本人的にはこうだ。
でも返ってきたのは、
うん、来てね。私はあなたを待っているよ。
笑
びっくりしたけど、行かない気だったけど、、、
内心嬉しかったのは事実。
彼女にとって、てかベトナム人にとって、0か100しかないのだ。
曖昧なんて考えは存在しない。
来て欲しいから、相手の心配とか気配りとかそんなのどうでもよいのだ。
来て欲しければ、来て。。
嫌なら、うんまた後で。
まだ私は切れてないんだね。
得意の思い込みの技で自分を立て直す。
ベトナム人のイエス、ノーというのは実にはっきりしていて、嘘がない。
これが私を苦しめることもあるけど、でもその分、幸せを十分にかんじることができる。
そんなこんなの7ヵ月目の私である。
青年海外協力隊 2次試験 内容
2018.7.9 青年海外協力隊2次試験
試験会場はオフィスビル内。綺麗で室温もちょうどよかった。そこまで緊張していなかったせいか、職員の方の今日の流れや注意事項も落ち着いて聞けた。
私の受験する「障害児・者支援」は技術面接・人物面接共に午後の予定だった。ということは、午前中は何もすることがない。
ただ、ここにいるのは皆、協力隊員を希望する者。みんな話したそうだし、元気の良さそうな人が多い。すかさず、隣に座っていた女性が話しかけてくる。
そしたらその隣の人も!!
あ〜なんかこういうのだよ!!今まではこういう人たちを探すのに一苦労だった。ここはやっぱり自分のいるべき場所だ。
結局、持ってきたノートや資料を見ることはなく午前中周りの人と盛り上がってた。希望職種も違う。希望隊次も違うけど、話のテンポがよく合う!!
それでも、やっぱり私の話を聞く人は
「あんた、ぶっ飛んでるわ〜」「行動力すごいわ〜」と言われる始末。
今の私が放っているオーラはポジティブで満たされているようだ。
昼食を済ませ、
技術面接が15:00〜ということで受験番号が呼ばれる。
先に技術面接とは思っていなかったので、緊張も高まるが、根本的には練習してきたという自信があるから、たとえ圧迫でも動じなかった。
面接が始まる。
面接官は進行役の優しそうな女性、専門家の男性、にこやかな専門家?の3人。
終始穏やかだった。
聞かれたことは、
・どうして退職しちゃったの?現職で行けばいいのに。
→真っ白な気持ちで挑みたかったからです。現職という道も考えましたが、私の場合、戻ってくる場所があると、今までの職場の私という枠の中でしか動けないのでは?と思った。
これまで作られた先入観や固まった考えを一度リセットして真っ白で見て見たいと思った。
・そうなんだ。完全に切ったんだね、すごい決意だね。常勤だったのに。
でもさ、帰国後何もないんだよ。どうするの?
→帰国後は、生まれ育った地元で教員をする予定です。地元でやるためには、一度今の土地を離れる必要があったので。そのタイミングで退職したのも理由の一つです。
・あ〜なるほどね、それなら納得!いいですね〜
・希望はスリランカ一筋だね。どうして?要請内容かな?
→もちろん要請内容重視です。でももう一つ理由があります。私はJICAのHPから担任のブログをよく読んでいました。その中に竹下担任のブログがとても印象的でした。彼女の活動は私がイメージしていることにぴったりで、素晴らしい活動でした。そんな時、今年の要請内容を見ていて、気づいたんです。竹下隊員のいるところと同じ学校があると!これはここしかない、と運命的な感覚に陥りました!私はここで活動したいんです!
・あ〜竹下さんね!そうだったんだ〜
・高等部では作業学習経験した?何した?
→陶芸をしました。
・手工芸や木工とかはできる?趣味でもいいけど。紙工でハガキとか作れるかな?
→経験としてはありませんが、ものづくりは好きです。ハガキ作りは見たことあります。
・教員してた時に担当してたのはどんな子?
→知的の小学部と高等部です。
・ムーブメント教育の資格、大学生でとったんだ〜。実際に教員になってからできた?
→やりたい気持ちはあったのですが、数回しかできませんでした。
・だよね〜、これ任地でやりたいでしょ?
→はい、やりたいです!!
・最後に、幼稚部〜小学部と中学部〜高等部だったらどっちが見たい?
→経験として長いのは小学部ですが、自分の力試しには高等部のほうが・・
でもどちらがいいかは、決めれません。与えられたところで全力を尽くします。
以上。
思っていた割には、深く突っ込まれずにおわりました。
やたらと高等部の活動を聞かれたこと。他の任地の提案はなかったですが、スリランカに行ける確証もなし。
16:30〜人物面談。
優しそうな男性2人でした。終始にこやかでした。
・自己紹介と志望動機を2分くらいでまとめてください。
→名前は〜です。
志望動機は、大学時代に行っていた支援級のボランティアで毎回気になったこと、疑問点を担任に伝えたことで1年後、担任から「教員や保護者のように毎日この子たちと関わっているとそれが日常になって小さな成長も見逃してしまいがち。でもあなたのようなボランティアさんは良い距離感であの子たちの成長に気づく。それは私たちにはできないことなの。」と言われ、伝えることもボランティアの役割なのだと気づいた。
また、教員になり身近にいる尊敬する人たちに共通していたのは、以前協力隊員だった、協力隊を目指していた、ということだった。そこから興味が湧いた。一人旅が好きで途上国に行くがいつも現地の人の生活、子供、障害児見るが観光客だと何もできないもどかしさがあった。まさに協力隊は、より近い立場で関われる、自分のやりたいことができるピンポイントの立場だった。
・ボランティアでは気になる子に対してどのような支援や関わりをしましたか?
→外国籍の女の子で表情が乏しかったです。まず自分ができることは隣でただただ寄り添うこと。強制はしなかった。彼女の動きを観察して、自然とそばにいるようにした。ゆっくりではあったが、1年後自分から私の方へ寄ってくるようになった。すごい変化だった。
・尊敬する人たちは、どこに派遣されたと言っていましたか?
→ニカラグアに行きました。そして、現在再びシニアでニカラグアに派遣されています。
・あなたは子供達にとってどんな先生でしたか?
→私は子供と関わるときは、強い指導はしないようにしていました。私たちが見ている世界とあの子たちが見ている世界は違うと思います。視野の広さや、感じるものも違います。なので私はあの子たちの目線に立つことを意識していました。また、私はいつも笑顔でいました、明るく振る舞い、子供達のことをたくさん褒めました。
・任国で困難なことがあった時どう乗り越える?
→自分の国と同じくらい好きになりたい。困難なことがあっても私はこの国が好きでなんとかしたいんだ。そういう思いを全身全霊で伝えていきたい。
・やる気があって任国のためになんとかしたいと思うのは大切だけど、もし相手の人がやる気がなくて、問題意識が薄かったらどうするの?
→気持ちや思いが相手とあまりにもかけ離れていたら、自分の考えややり方は絶対に押し付けない。まずは相手の出方を様子見する。これまでやってきたこと。相手の考えに耳を傾ける。信頼関係が築けてきたら、私の考えも伝えてお互いが納得するまで話し合う。
・今までどうやって逆境を乗り越えてきた?
→高校生の女の子で体が大きく他害が激しい子がいた。一番辛いのは彼女。どうにかしたかった。でも毎日私を殴り続ける。流石にしんどくなった。そんな時助けてくれたのは同僚だった。私の思いや意思を尊重してくれたからこそ、助け合えた。私にとっていつだってターニングポイントとなるのは人。人との出会いで私は成長してきた。
と、まぁ質問はこんな感じでした。